『短歌ください 双子でも片方は泣く夜もある篇』発売

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今日(3月28日)『短歌ください 双子でも片方は泣く夜もある篇 穂村弘』(KADOKAWA)が発売されました。僕の短歌も「転校生」「初恋」「キス」「夏休み」「手紙」「昼寝」「きらきら」のところに載っています。よろしくお願いします。

 

短歌ください 双子でも片方は泣く夜もある篇

短歌ください 双子でも片方は泣く夜もある篇

 

 

「短歌の時間」に掲載されました

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3月9日発売『公募ガイド 4月号』P.108「東直子の短歌の時間 テーマ詠:朝」にて秀逸をいただきました。東さんから評もいただいております。どうもありがとうございます。

 

 

公募ガイド 2019年 04 月号 [雑誌]

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J.D.サリンジャー全小説再読の感想

J.D.サリンジャー生誕百周年ということで、今年に入ってからサリンジャーの全小説を再読しました。その際ちょこちょこっと感想ツイートしていたものをこちらにまとめてみました。以下ツイッターからの抜粋です。

 

 

『若者たち』

 

今年の読書はサリンジャーの再読から。感想を本単位じゃなくて作品単位で(短編もひとつずつ)ツイートします。まず『若者たち<短編集Ⅰ>』から。これらの短編は雑誌に発表されたものの本人が単行本に収録されることを拒否したため、本国では書籍化されていないんですよね。

 

サリンジャー氏はおそらくこの作品群は習作と捉えていたからだと思われるんだけど、それがどういうわけか日本でだけ翻訳され書籍化されていたんですよね。日本人に生まれて良かった。しかも既に絶版になっているから、二十年以上前に買っておいて本当に良かったなと思います。

 

というわけで年代順に再読していきます。まずデビュー作「若者たち」。ホームパーティ中の若者たちの心理を描いていて、ほぼ全編がエドナとジェイムソンの会話で成り立っているんだけど、まあこの会話の噛み合わないこと。既にサリンジャー節全開といった感じです。

 

処女作というのは往々にしてその作家の抱える中心的な問題が表れやすいと思うんだけど、やはり「コミュニケーションの不毛」や「鋭敏であるが故の理解されなさ」といったテーマが根を下ろしている。エドナの孤独感の中にホールデン・コールフィールドの原型がある気がしてなりません。

 

 

『エディに会いな』

 

サリンジャー「エディに会いな」再読。兄妹というのはサリンジャーが好む設定だけどホールデン&フィービーやゾーイー&フラニーと違って、このボビー&ヘレンはお世辞にも美しい関係とは言い難い。最後にオチがあるんだけど、それもガッカリな結末なんだよなあ。

 

 

『じき要領をおぼえます』

 

サリンジャー「じき要領をおぼえます」再読。これはおそらくコリヤーズ誌から「O・ヘンリ的なショートショートを」という依頼を受けて書いたんじゃないかなあ。いかにもそんな展開なんだけど、オチがあまりに陳腐ですね。サリンジャーも本意ではなかったんじゃないかな。

 

 

『できそこないのラヴ・ロマンス』

 

サリンジャー「できそこないのラヴ・ロマンス」再読。初期作品では特に好きな一編。コリヤーズ誌向けのロマンスを書けなかった理由自体を皮肉を込めて小説化し、エスクワイヤ誌に発表したもの。さえない男が憧れの美女とお近づきになるパターンを浮かべては没浮かべては没にするんだけど

 

その内容が軽快でコメディタッチで面白いんですよねえ。理想の女性と親しくなる方法についてのめくるめく妄想ワールドといた感じで。村上春樹さんの「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」はこの小説をヒントにしてるんじゃないかなあ。

 

僕はこの小説の中で主人公がラブレターにしたためるこの一節が好きです。「愛とは性と結婚と六時のキスと子どもたちだと考えている人もいます。おそらく、そうなんでしょう。でも、ぼくはどう考えているかお分かりですか? ぼくは愛とは触れようとして触れ得ぬことだと思います」

 

 

『ルイス・タゲットのデビュー』

 

サリンジャー「ルイス・タゲットのデビュー」再読。或る女性が二度の結婚を通じて試練を乗り越える話なんだけど、短編にするには詰め込みすぎな気が・・・。訳者はこれを成熟の物語と捉えているようだけど、僕は妥協と諦念の物語だと感じます。タイトルの「デビュー」もアイロニーだと。

 

 

『ある歩兵に関する個人的なおぼえがき』

 

サリンジャー「ある歩兵に関する個人的なおぼえがき」再読。これは「じき要領をおぼえます」とよく似ていますね。戦争ものでショートショートでオチがいただけない。どうしてもサリンジャーらしくない気がしてしまって、やはりこれも依頼に合わせて書いたんじゃないかなあ。

 

 

『ヴォリオーニ兄弟』

 

サリンジャー「ヴォリオーニ兄弟」再読。初期短編の中では特に完成度の高い一編。天才兄弟というのもサリンジャーが好んで用いる設定ですね。輝ける無垢なる才能が、世俗やポピュラリティによって損なわれていく悲劇を描いていて、後の作品のテーマに繋がる部分も見受けられる。

 

 

『二人で愛し合うならば』 

 

サリンジャー「二人で愛し合うならば」再読。語り手の口調がホールデンとそっくりなので、「ライ麦畑でつかまえて」の文体はここで確立したんじゃないかな。(渥美訳と野崎訳もそっくり)でもこの主人公のビリーはただ未熟なだけで終わっていて、およそホールデンの魅力には及ばない。

 

 

『やさしい軍曹』 

  

サリンジャー「やさしい軍曹」再読。この短編集で一番好きなのはこの作品。何度読んでも最高です。夫のフィリーが妻のジャニタにかつて戦場でお世話になったバーク軍曹のことを語り聞かせるという設定なんだけど、この三人ともが僕は大好きなんですよね。短い中に三人の魅力が凝縮されている。

 

サリンジャーは後期になるにつれ思想性を濃くしていくんだけど、前期にはこういうセンチメンタリズムが爆発する作品があるんですよね。これなんかは「ナイン・ストーリーズ」あたりに収録されても良かったのになあと思うんですよね。だって世界中の人に読んでほしいもの。

 

僕はこの作品を読み返すたびラストのところで必ず泣きます。感動的な話だからというわけではない。悲しいからでもない。軍曹のやさしさに胸を打たれるというのも違う。うまく説明できないけれど、フィリーの語りの奥にあるサリンジャーの審美眼に深く共鳴するからかもしれません。

 

 

『最後の休暇の最後の日』

 

サリンジャー「最後の休暇の最後の日」再読。ベーブ・グラドウォーラー三部作の一作目。色々な意味で重要な作品。まずホールデン・コールフィールドの兄ヴィンセント・コールフィールドが登場し、弟のホールデン(二十歳)が行方不明であることが語られている。ライ麦のホールデン初登場。

 

またベーブの妹マティーはホールデンの妹フィービーの原型と言えるような少女として登場する。後半ベーブがマティーに語り聞かせる口調でひとりごとを呟くシーンでは、サリンジャーのイノセンスに対する憧憬が表れていて、「ライ麦畑でつかまえて」の種が芽生え始めている。

 

さらにベーブが父親に歯向かうシーンからはサリンジャーの戦争観も垣間見られるし、「アンナ・カレーニナ」「カラマーゾフの兄弟」「グレート・ギャツビー」「嵐が丘」についての言及があることで、サリンジャーの読書遍歴に触れることもできる。最後のシーンもグッとくるんだよなあ。

 

勝手な憶測だけど、サリンジャーはこの小説の脇役(兄の話でしか登場しない)ホールデンの高校生時代を描こうと思い立ち、マティーを原型としてフィービーという妹を造形し、「二人で愛しあうならば」で実験した語り口調を用いて「ライ麦畑でつかまえて」に結晶させたのではないだろうか。

 

 

『週一回なら参らない』 

 

サリンジャー「週一回なら参らない」再読。「最後の休暇の最後の日」は出征前夜の話だったが、これは主人公を替えて出征当日のことを描いている。戦争の現実が飲みこめていない妻と時間を過去に留めて生きる叔母との別れのひととき。この叔母とのラストシーンがなんとも切ない。

 

 

『フランスのアメリカ兵』

 

サリンジャー「フランスのアメリカ兵」再読。ベーブ・グラドウォーラー三部作の二作目。これはベーブが戦地の塹壕で眠るひとときを描いた話。過酷な戦場と能天気な母の手紙とのギャップが悲しい。サリンジャーの戦争体験がいかに彼の心に暗い影を落としているかが伺える。

  

また文中エミリー・ディッキンソンとウィリアム・ブレイクについて触れている箇所があり、サリンジャーが詩にも通じていることが分かる。(この後詩をテーマにした小説もあるし)

 

 

『イレーヌ』

 

サリンジャー「イレーヌ」再読。現実社会への適応能力が希薄な祖母・母・娘が、結局適応しないまま生きる道を選ぶといった結末なんだけど、この時期のサリンジャーはそれを憧憬の眼差しで捉えているような気がする。イノセンスが損なわれないという意味ではハッピーエンドなのかも。

 

 

『マヨネーズぬきのサンドイッチ』

 

サリンジャー「マヨネーズぬきのサンドイッチ」再読。「最後の休暇の最後の日」に登場したヴィンセント・コールフィールド(ホールデンの兄)が主人公。表現が緊張感に満ちていて、ヴィンセントのモノローグなどはほとんど狂気に近い。戦争によって摩耗していく精神と家族への思慕。

 

 

 『他人行儀』

 

サリンジャー「他人行儀」再読。ベーブ・グラドウォーラー三部作の三作目。ベーブが友人ヴィンセント・コールフィールドの戦死の事情を彼の元恋人のとこへ告げに行く。この作品からも戦争に苦しめられたサリンジャーの傷みが見て取れる。唯一の光は妹マティのイノセンスだろう。

 

 

『気ちがいのぼく』

 

サリンジャー「気ちがいのぼく」再読。いよいよホールデン・コールフィールドが一人称の主人公として登場する。「ライ麦畑でつかまえて」で重要なシーンとなるスペンサー先生を訪ねるくだりとフィービーの部屋で語り合うくだりはこの小説中に描かれている。

 

ただいずれのシーンも「ライ麦」の方がはるかに魅力的です。ここではまだホールデン独特の語り口調も確立されてないし。サリンジャーはやがてこの小説を原型として初の長編小説に取り組むことになる。『若者たち<短編集Ⅰ>』はここまで。

 

 

『マディソン街のはずれの小さな反抗』

 

サリンジャー『倒錯の森<短編集Ⅱ>』より「マディソン街のはずれの小さな反抗」再読。これも主人公はホールデンだけど三人称。「ライ麦」にも出てくるサリー・ヘイズやカール・ルースとのくだりがあって、やはりここでもホールデンは誰とも分かり合えない少年として描かれている。

 

ナイーブで夢見がちで寂しがり屋なホールデンの性格は既にできているけど、「ライ麦」ではその要素がさらに強まっているように感じます。語りについては試行錯誤してるみたいだけど、長編にする際一人称にして「二人で愛しあうならば」の口調を取り込んだのは大正解だったと思いますね。

 

 

『大戦直前のウェストの細い女』

 

サリンジャー「大戦直前のウェストの細い女」再読。これだけは何回読んでもよく分からないんですよね。サリンジャーの意図がどこにあるのか焦点が絞り切れない。人生の一大事についての判断を短時間のうちにあっさりつけてしまうのは戦争の影が忍び寄っているせいか。

 

 

『ある少女の思い出』 

 

サリンジャー「ある少女の思い出」再読。主人公の恋したユダヤ人の娘がナチスの手によって殺されるという話なんだけど、これはサリンジャー自身がユダヤ系である背景が大きく影響していると思われる。これも印象の薄い短編だけど、サリンジャーの数少ない恋愛小説のひとつですね。

 

 

『ブルー・メロディ』 

 

サリンジャー「ブルー・メロディー」再読。初期短編の中では最も好きな作品のひとつ。イノセンスがある種の大人たちによって容赦なく奪われる物語をサリンジャーは繰り返し書いているけれど、この作品で怒りと失望の矛先が向けられているのは人種差別。あまりにも悲しい物語。

 

例えば「人種差別反対」という字面だけでは人の心に浅くしか触れることができないけれど、こうして作品に昇華させると力が宿り人の心の深いところに届かせられる。それこそが文学の持つ意義だということを、僕は学生の頃この小説によって初めて教えられたような気がします。

 

 

『倒錯の森』 

 

サリンジャーの中編「倒錯の森」再読。初期中短編の頂点というべき作品。天才詩人レイモンド・フォードと二人の女性を巡る物語で、ここでも「無垢なる才能が世俗的なものによって損なわれる」というテーマが流れている。しかしながら一筋縄ではいかない着地を見せるところがさすがサリンジャー。

 

僕はこれほどの傑作が本国で出版許可されなかったことを不思議に思うんだけど、この後サリンジャーはシーモア・グラス(レイモンドと同系統にある)というさらに魅力的な人物を生み出したからかもしれないですね。『倒錯の森<短編集Ⅱ>』はここまで。

 

ちなみにここまでの二冊の短編集はもう古本でしか手に入らないけど、このうちの八編は昨年出版された『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16,1924年』(金原瑞人訳・新潮モダンクラシックス)で読むことができます。どれも邦題は若干ちがうけど。

 

 

『ライ麦畑でつかまえて』

 

サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』再読。二十歳の頃に出逢ってからこれまでに最も繰り返し読んだ本であり、僕の人生を決定的に変えた小説。大学の卒論もこの作品の研究だったけど、これほど野卑な言葉と毒を孕みながら何故こんなに美しい輝きを放つのかはいまだに解き明かせない。

 

ちなみに僕が愛読しているのは白水Uブックスの野崎孝訳です。村上春樹訳の方がもちろん言葉は新しいんだけど、ホールデンが二歳くらい年上に感じられるんですよね。僕はすっかり野崎訳に慣れてしまっているし、ドライヴ感のあるサリンジャーの文体を生かしきった名訳だと思います。

 

作中ホールデンがいい本について「本当に僕が感動するのはだね、全部読み終わったときに、それを書いた作者が親友で、電話をかけたいときにはいつでもかけられるようだったらいいな、と、そんな気持ちを起こさせるような本だ」と述べているんだけど、僕にとってはそれがまさにこの小説です。

 

今回改めて思ったのは、ホールデンを描きつつも、アントリーニ先生の視点も持ち合わせているところがサリンジャーの最大の魅力ではないかということです。(それは後に「ゾーイー」という小説に発展するわけだけど)片手落ちになっていないところが、僕がサリンジャーを敬愛する所以です。

 

そして1951年に発表されたこの小説が、明らかにマイノリティであるホールデンを主人公に据えつつ世界累計6500万部を売り上げ、現在でも毎年25万部ずつ売れているという事実は僕にとって希望そのものです。ホールデンに共感する人間がそんなにいる世界なら生きていける気がするのです。

 

 

『バナナフィッシュにうってつけの日』 

 

今日からサリンジャーが本国で出版した唯一の短編集『ナイン・ストーリーズ』を。まず「バナナフィッシュにうってつけの日」。サリンジャーは自作のことを語らないので想像するしかないんだけど、おそらくこの作品を書き上げたとき「やっと本当に書きたいものが書けた」と思ったんじゃないかな。

 

そして、サリンジャーが最も自己投影し最も愛した登場人物はこのシーモア・グラースだったのではないか。だからこそこの作品をきっかけに壮大なグラース・サーガを展開させ、後期はシーモアの謎に迫ることに作家生命を捧げたのではないかという気がするんですよね。

 

改めて読むとあの最後の一行に向かうまでの過程に技巧の限りが尽くされていますね。バナナフィッシュという架空の魚の生態やシビルとの戯れの描写はもちろんだけど、前半のミュリエルと母の会話のリアリティといったら! 他の作家には絶対こういう書き方はできないと思う。

 

ため息が出るほど完璧な小説だなあと感服します。この小説を二十歳で初めて読んだときの衝撃は忘れられないし、僕は今でもその謎を追いかけている最中です。

 

 

『コネティカットのひょこひょこおじさん』

 

サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん」再読。シーモアの弟(グラース家三男)が間接的に登場するので一応グラース・サーガの一部ではあるけれど、物語は主人公エロイーズのやり場のない苛立ちや悲しみを軸に展開される。大切なものが理不尽に奪われる人生のやるせなさ。

 

 

『対エスキモー戦争の前夜』

 

サリンジャー「対エスキモー戦争の前夜」再読。これは何度読んでも僕にはよく分からないんですよねえ。そもそも何故この作品が『ナイン・ストーリーズ』に選ばれたのかも謎。うーん・・・。色々な意味でお手上げだけど、いつか分かる日が来ることを楽しみにこれからも読み続けます。

 

 

『笑い男』

 

サリンジャー「笑い男」再読。これは好きな一編。何度読み返しても怖いと思ってしまう。前半はサークルの子どもたちと団長の交流が描かれていて牧歌的な雰囲気なんだけど、団長に恋人ができたあたりから少しずつ歯車が狂い始める。それを子どもの視点から描いてるのが絶妙。

 

団長が子どもたちに語り聞かせる「笑い男」という挿話が、次第に団長のプライベートにシンクロしてくる感じがとてつもなく怖い。団長の心情を全く描いてないから余計に。イノセントな世界に現実の喪失感が浸食してきて、ラストはいたたまれない気持ちが湧き上がってくる。

 

 

『小舟のほとりで』 

 

サリンジャー「小舟のほとりで」再読。グラース家長女のブーブーが登場。このブーブーと四歳の息子ライオネルの心温まるやり取りを中心に展開していく。サリンジャーには珍しく微笑ましい話ですね。ナイーブなライオネルには明らかにグラース家の血が流れているように感じる。

 

 

『エズミに捧ぐー愛と汚辱のうちに』

 

サリンジャー「エズミに捧ぐ―愛と汚辱のうちに」再読。僕はサリンジャーの短編ではこの作品が最も好きです。途中で一人称から三人称に変わる構成の妙、X曹長の苦悩、エズメのおしゃまな聡明さ、チャールズの無邪気さ、そしてラストシーン。すべてが美しく絡み合っている。

 

僕は子どもを書かせたらサリンジャーの右に出るものはいないと思っているんだけど、特にこの喫茶店でのエズミとチャールズの描写はリアルで生き生きとしていて素晴らしい。X曹長には戦争で深く傷を負ったサリンジャーの魂が反映されていて、それ故にラストは涙なしには読めない。

 

改めて読み返すとこの「エズミに捧ぐ」はけっこう細かい描写まで自分の中に沁み込んでいて、そういえば学生の頃この小説が好きすぎて丸写ししたことがあったことを思い出しました。暇だったんだなあ。

 

 

『愛らしき口もと目は緑』

 

サリンジャー「愛らしき口もと目は緑」再読。『ナイン・ストーリーズ』の中では異色の作品で、恋愛心理サスペンスのような展開を見せる。ラストで物語が反転するんだけど、それが非常に謎めいていて狐につままれたような読後感が残る。最後の電話はいったい何なんだろう。怖い・・・。

 

 

『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』

 

サリンジャー「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」再読。これは何度読み返しても入ってこないんですよねえ。最後に主人公が天啓を得るんだけど、そこもよく分からない。宗教的な知識がないと読み解けないのかなあ。サリンジャーが高みに行き過ぎていてあまり好きな作品ではないですね。

 

 

『テディ』

 

サリンジャー「テディ」再読。これはサリンジャーが神秘主義や東洋思想に急速に傾倒していったことを伺わせますね。十歳の天才少年テディを通じて語られる存在や認識や瞑想や輪廻についての話。難解ではあるけれどすごく読みやすくて、小説としても面白いです。好きな作品

 

テディはどこかシーモアの幼少期を彷彿とさせるところがあり、ラストを飾るこの「テディ」の結末が冒頭の「バナナフィッシュにうってつけの日」の結末にリンクする形で『ナイン・ストーリーズ』は幕を下ろす。そして次から本格的なグラース・サーガの幕開けとなる。

 

 

『フラニー』

 

サリンジャー「フラニー」再読。これも大好きな一編。初めて読んだのが大学生の頃だったこともあって、当時はフラニーの苦悩に深く共鳴していました。僕も同じようなことに打ちのめされていた学生だったので。「ライ麦」同様に深い親しみを覚え、孤独感を拭われた一編です。

 

グラース家の末っ子フラニーが周囲のスノビズムやエゴに脅かされ摩耗していく様子を描いていて、その感受性はホールデンに通じるものがある。しかしホールデンがインチキなものに反発し毒を吐きまくるのに対し、フラニーは鬱々として自己嫌悪に陥っていくのでより深刻なんですよね。

 

恋人のレーンは善人ではあるけれど、結局はスノッブの一員でありフラニーを救うには至らない。救世主は続編にあたる「ゾーイー」まで待たねばなりません。この二作はワンセットですね。学生の頃は「フラニー」に共感していたけど、今の僕は「ゾーイー」の方が好きです。

 

 

『ゾーイー』

 

サリンジャー「ゾーイー」再読。「フラニー」の続編であり、サリンジャーのひとつの到達点と言うべき中編。グラース家五男のゾーイーが、満身創痍の末っ子フラニーを救うためひたすら説得にあたる物語で、サリンジャーのキリスト教観や東洋哲学観が盛り込まれている。

 

この「ゾーイー」は「ライ麦」のホールデンの夢を具現化させた作品のような気がするんですよね。ライ麦畑から落ちかかっている妹フラニーを兄ゾーイーが捕まえる。僕はホールデンやフラニーを生んだサリンジャーに深く共感しますが、ゾーイーの登場によりその共感は敬愛へと高まりました。

 

 

『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』

 

サリンジャー「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」再読。「バナナフィッシュ~」の前日譚であり、グラース・サーガの中核を成す中編。発表順としては「ゾーイー」より先なので、この作品で初めてシーモア・バディ・ブーブー・ウォルト・ウェーカー・ゾーイー・フラニーが兄弟であることが明かされる。

  

シーモアの結婚式当日の様子を次男バディの視点から描いているんだけど、「バナナフィッシュ~」の謎に取りつかれている読者にとってこれほど興味深い作品はないですよね。というか、後半のシーモアの日記においては、余計に謎が深まってしまうと言えなくもないんだけど・・・。

 

今回改めて読み返してみると、ひとつの小説としてもすごく面白いですね。(もちろん「バナナフィッシュ~」を読んでからの方が絶対にいいけど)前半なんて見方によってはコントのような設定だし。思想色も抑えめなので、後期の中ではわりと読みやすい一編です。バディは兄弟の要なんだよね。

 

 

『シーモアー序章ー』

  

サリンジャー「シーモア―序章―」再読。この作品によってサリンジャーは物語というものを完全に放棄してしまいましたね。バディが饒舌な文体で回想しながらシーモアの人物像に迫る小説。ただその迫り方が手ぬるいというか、最後まで精神的な核心に踏み込まないんですね。

  

結局表面的(身体的)な人物像を語って終わってしまい、読者としては肩透かしをくらう。それはたぶん「序章」だからだと思うんですよね。幻の未発表作の中にこの続編があるのではないかと。サリンジャーは死ぬまでシーモアの追究をやめなかったはずだ。僕はそう信じています。

 

 

『ハプワース16,一九二四』

 

サリンジャー「ハプワース16,一九二四」再読。生前最後に発表した小説であり、本国では未単行本化。これもまたストーリーは皆無で、7歳のシーモアが家族に向けて書いた手紙がほぼ全編を成す書簡体小説となっている。これは残念ながら小説的魅力に欠けた作品と言わざるを得ません。

 

色々な面でリアリティがなさすぎるんですよね。いくらシーモアが天才と言っても7歳が書いた手紙としてはあまりに難解で長すぎる。サリンジャーは東洋哲学や神秘主義について語りたいがため、読者を置いてけぼりにしすぎている気がします。だから単行本化もされなかったんじゃないかな。

 

 

 

というわけで、今年生誕百周年のJ.D.サリンジャーの全小説を再読しました。サリンジャーが亡くなったとき「未発表作5編が遺言により2015年~2020年に発表」というニュースが流れたんですね。で、それは百周年にあたる今年なんじゃないかと密かに期待していたんですよ。

 

ところが先日「遺族が未発表原稿の出版準備を進めているが、分量が多く出版は何年も先に~」という記事が・・・。ガッカリ。でも、「分量が多く」という情報は初めてでちょっと興奮してしまいました。5編以上発表されるのかなあ。いずれにせよ楽しみに待ちたいと思います。

 

   (以上2019年1月3日から3月6日のツイートより抜粋)

 

「短歌の時間」に掲載されました

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2月9日発売『公募ガイド 3月号』P.108「東直子の短歌の時間 題詠:明」に掲載されました。どうもありがとうございます。

 

公募ガイド 2019年 03 月号 [雑誌]

公募ガイド 2019年 03 月号 [雑誌]

 

 

 

「短歌ください」に掲載されました

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2月6日発売『ダ・ヴィンチ 3月号』P.78「短歌ください 穂村弘 テーマ:アルバイト」に掲載されました。どうもありがとうございます。書店などでご覧いただけたら幸いです。

 

ダ・ヴィンチ 2019年3月号

ダ・ヴィンチ 2019年3月号