「智恵子抄」 高村光太郎

学生の頃この詩集を初めて読んだときは、
多くの方がそうであるように僕もまた胸を打たれ
なんと哀しく美しい抒情詩集だろうと思いました。
ひとりの女性への底抜けの愛を詠いあげた
世界的にもあまり類を見ない希有な一冊であると。


しかし、今はこの詩集(殊にその背景)について
思いを馳せるとき、僕はほとんど言葉を失います。
理由は複雑すぎてうまく説明できませんが、
少なくとも「生涯を貫いた純愛の詩集」などという
単純な片づけ方はとてもできません。


僕の周囲でわずかながら(しかし複数の)女性が
この詩集に対して批判的な見解を示していて、
歳を重ねるにつれ、その意見も無視できなくなっている
自分がいるからかもしれません。


そこには、男と女、あるいは光太郎と智恵子の
いずれに視点を置くかという問題もあり、
愛と幸せのどちらに価値を置くかという
問題もあるような気がします。


僕には難しすぎてよくわかりませんが、
おそらく賛否両論の原因のひとつとして、
我々が智恵子さんの実際の心の内を
この詩集からは知ることができないから
かもしれません。


もし智恵子さんが「光太郎抄」という詩集を
遺されていて、我々がその両方を読むことができたら、
あるいは事情は違っていたかもしれません。
「愛」がひとつのテーマとなっている場合、
一筋縄ではいかないのは世の常ですね。
両方向からのベクトルがあってはじめて
成り立つ性質のものだから。


しかしながら、この詩集が歴史に名を残し
多くの方々に愛され続けていることは、
動かし難い事実です。
上記のような複雑な迷路にはまりこむよりも、
一読してその愛の深さに胸を打たれるような
読み方のほうが、この本に対してまっとうな
接し方のようにも思います。
ただ、僕が純粋でなくなり、以前のように
接することができなくなっただけの話で。


とはいえ、僕はこの詩集が好きです。
たとえ一部の女性たちから批判されても、
男としてはどうしても留保ない共感を覚えます。
これが愛でなければ、他の何を愛と呼ぶのだと
いうほどに。


「詩集」というよりは、生涯に渡って綴った
「恋文」といった方が適当なのかもしれません。
だとするならば、愛する者の死後に至ってまで、
たったひとりの女性に恋文を書き続けて発表し、
それを多くの人が読み続けて胸を打たれた例など
他にあったでしょうか。


「人に」「僕等」「あなたはだんだんきれいになる」
「あどけない話」「レモン哀歌」といった
名作を収めた、おそらくは日本で最も有名な詩集
のひとつではないでしょうか。


個人的には「人類の泉」が最も好きな一編です。


智恵子抄 (新潮文庫)

智恵子抄 (新潮文庫)