「あなたも詩人」 文・辻信太郎 絵・葉祥明

こういうタイトルですが、詩の書き方の入門書といった趣よりも名作を集めて紹介したアンソロジー詩集といった感じの本です。(僕は書き方の入門書や手引書の類いは一切読まないので)普段詩に馴染みのない方が入り口として読むのには、茨木のり子さんの『詩のこころを読む』か、この本が最も適しているのではないかと個人的には思います。


僕がこの本を好きなのは、取り上げられている詩のチョイスが素晴らしいのと、辻さんの解説が詩への愛に溢れているからです。


まず、取り上げられている詩を挙げてみますと


「からたちの花」 北原白秋
「かなりや」 西条八十
「のちのおもいに」 立原道造
「春の陽射し」 きのゆり
「うたをうたってあげたい」 ゆきやなぎれい
「落ち葉」 グールモン
「秋」 リルケ
「はるかなる恋人へ」 ゲーテ
「いとしき泣きぼくろ」 サトウハチロー
「ちいさなテノヒラでも」 やなせたかし


こうして見ると、一般的にはあまり知られていないであろうきのゆりさんや、ゆきやなぎれいさんの作品と北原白秋さんやゲーテさんの作品が同等に扱われています。サンリオやかまくら春秋社から出版されているもの(「やなせたかしさんの周辺」と言ってもいいかもしれません)は、こういう有名・無名の垣根がないところ、ヒエラルキーが存在しないところがとても好きです。


ひとつひとつの詩については是非この本で味わっていただきたいのですが、個人的には辻さんが引用されているリルケの言葉に深く考えさせられるところがあるので、ここでご紹介したいと
思います。



人は一生かかって・・・まず蜂のように蜜と意味を集めなければならない。そしてやっと最後に、わずか10行の立派な詩が書けるだろう。詩は、ひとの考えているように感情ではない。詩は、ほんとうは経験なのだ。

この言葉には隅々まで共感します。そして、これに続く文章もまさにその通りだと。



1行の詩を書くためには、たくさんの街、たくさんの本を見なければならない。静かな部屋で過ごした1日、海辺の朝、産婦の叫び声を聞き、それらを思い出にしてしまわなければならない。でも、それだけではなにもならない。思い出が多くなったら、それを忘れることができなければならない。そして、もういちど思い出すために耐えねばならない。思い出がわたしたちのものになり、わたしたちと区別がつかなくなったときに、ふとしたとき、一編の詩のはじめの言葉が、その思い出のまんなかから、ぽっかり生まれてくるのだ。


僕は詩作をしている自分の経験上、この文章の言わんとすることが手に取るように分かります。自分の中でモヤモヤしてることを全部リルケさんが言ってくれているという爽快感があります。特に、思い出を一旦忘れそれに耐えなければ・・・といったくだりが。詩になるためにはそういう「醸造期間」みたいなものが必要なんですよね。


もうひとつ。ゲーテさんの「はるかなる恋人へ」という詩(僕も大好きな詩です)の解説の中で、辻さんはこう述べています。


最後にゲーテは、もうもどらないとわかっている恋人に「帰っておいで」と呼びかけています。とくに素晴らしい言葉ではないのだけれど、そんな時って、ほんとうにこの言葉しかないと思わせるほど説得力を持っているとは思いませんか。

僕はやたらと技巧を凝らした詩や表向き難解に取り繕っている詩は好きではなく、「帰っておいで」といったごくありふれた言葉が、その詩の中で特別な意味を持って光っているような詩が好きです。


それについて辻さんは、こう続けます。




その言葉も、まねようがないほど崇高で、新奇なものでは決してないのです。しかし、その一言がその詩にはなくてはならない、かけがえのないものになっています。それは詩人が苦しんで思いついた言葉、選んだ言葉だからなのです。

僕はそういう点で、海外の詩ではゲーテさんの作品がとても好きです。そもそもはこれが詩じゃないか! と思わせてくれるんですよね。


いつから日本の現代詩は「まねようがないほど崇高」で「新奇なもの」ばかりを目指すようになってしまったんでしょう。詩が好きでたまらない人にしか門戸を開かないような閉鎖的で難解なものに。この本に載っている北原白秋さんや西条八十さんたちのように近代の素晴らしい詩人たちは皆、優しい言葉で伝える道標を示してくれているのに。


平成の今、その風潮に対抗して最前線で戦っている人間は、やなせたかしさんではないかと僕は思っています。そのやなせさんの詩でこの本は幕を閉じます。


「ちいさなテノヒラでも」


という一編。僕はこの詩を読むたび、ただひたすらに涙がこぼれます。