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「表札など」 石垣りん

詩集

詩人といえば石垣りん


何故か僕は真っ先にそう思います。
理由はうまく説明できませんが、たとえば誰かに
「どういう人を詩人というのか?」と尋ねられたなら
迷うことなく「石垣りん」と答えるでしょう。
そしてこの「表札など」を読めば、だれも
反論できる人はいないのではないでしょうか。


今回読み返して、「あとがき」を読んで改めて
気づいたのですが、彼女の四冊の詩集は2000年に
童話屋が復刻させるまではすべて絶版になって
いたのですね。驚きました。復刻させた童話屋に
ひとりスタンディング・オベーションです。
おかげさまで、僕はこの詩集をこよなく愛し、
何度も読み続けさせてもらっています。


ところで、僕は以前とある事情で、彼女の詩を
多くの人々の前で解説させられるという
立場に立たされたことがあります。
ちょうどこの詩集に掲載されている
「シジミ」と「子供」と「表札」と「くらし」。
(あと「幻の花」と「崖」もあったっかな?)


もう嫌で嫌で仕方ありませんでした。
できることなら本を静かに閉じて開口一番
「詩は頭で解釈するものでなく、心で感じるものです。
よって解説は不要です。では、さらば!」
と言ってその場を立ち去りたかったです。
(勇気がなくてできませんでしたが)


だって、解説なんてねえ、ある意味作品に
対する冒涜ですよねえ・・・。
そのせいで、せっかく素晴らしい上記の4作を
その後しばらく純粋な気持ちで読めなくなっている
自分がいました。詩の解説なんてやるもんじゃ
ありません。絶対に。


彼女の詩は教科書などにも山ほど載っているので、
色々なところで色々な人に切り刻まれたり、
こねくり回されたりしているのかと思うと、
なんだかやるせない気持ちになります。
教科書で勉強したり、入試問題で解いたりするのでなく、
やはりまっさらな気持ちで「作品」として楽しみながら
読みたいものですよね。


しかしながら、どこでどんな風に扱われたとしても、
彼女の作品が素晴らしいことは変わりありません。
それにこの詩集、「本の中における言葉の密度」
と「言葉の柔らかさ(やさしさ)が」、なんというか
「丁度いい!」って感じがしませんか?
なんだか、最近の現代詩は、これよりはるかに
濃密で過剰で固くて奇を衒っている感じがするのです。
「詩ってこのくらいがちょうどいいのになあ」って
僕はいつも思います。たぶんこのくらいにするのが
一番むずかしく、長けたセンスが必要とされるのだと
思いますが。


さて、個人的に特に好きな詩は、


「旅情」
「花」
「冠」
「経済」
「愚息の国」
「銭湯で」
「童謡」

です。


「銭湯で」は、何度読んでも、読み終わった
あとに痛快な気持ちで頬がゆるみます。
それから「冠」と「経済」の視点には、
目から鱗が落ちます。大好きな二編。
「これぞ詩!」「石垣りんこそ詩人!」です。


ちなみに、僕はいつもここで取り上げる
詩人の方々のお名前には敬称をつけていますが、
今回に限り「石垣りん」と呼びつけにさせて
いただきます。
「表札」という作品に敬意を表して。



表札など―石垣りん詩集

表札など―石垣りん詩集